ログイン驚いた蒼也が、彼女の二の腕を掴んで体を引き離した。顔を上げたところで私と目が合い、わずかに目を見開く。選択肢は二つ。――踵を返して立ち去るか、それとも事務所に入って事情を確かめるか。あまりにも芝居がかった彼女の態度に、迷いはなかった。後者一択だ。蒼也は掴んだ手を離し、「沙耶さん、どうしたんですか。なんでこんなことを」と問いかける。すると彼女は「先生…先生のことがずっと好きなんです」と泣き始め、再び胸に縋ろうとする。それを、蒼也はじりじりと下がって避ける。「沙耶さん。あなたの気持ちは受け入れられません。悪いけど、帰ってください」その言葉に、沙耶がこちらを振り返った。「この人のせいですか? 私、ずっと先生を思ってきたのに。うちの父だって! 先生が私と結婚して会社を継いでくれたらって」「そんなことはあり得ないって、わかっているでしょう。私はあなたとどうこうなる気は一切ありません」蒼也の冷たい口調に、ショックを受けたような表情を浮かべたあと、沙耶は手を下ろし、両拳を握りしめて叫んだ。「なんなのよ! ちょっと名前が売れたからっていい気になって。それもこれも父が口をきいたからじゃない」「あなたのお父さまには本当に感謝をしています。ですが、それとこれとは関係ありませんよ」「うちの父の支援がなかったら、今ごろ借金まみれで落ちぶれてたくせに! この恩知らず!」――バチン。目の前で頬を押さえる彼女を見て、はっとした。耐えきれず、思わず甲高い声を上げる彼女を平手で打ってしまっていた。「ご…ごめんなさい」思わず自分の手と彼女を交互に見つめて、言葉を失っている彼女に謝った。でも、どうしても黙っているわけにはいかなかった。「どういうつもりでそんな発言をしているのか知りませんが、あまりにも失礼でしょう?」彼女は、頬を手で押さえ驚いた表情を浮かべた後、目に再び涙が溜め、声を上げて泣き出す。「なによ! 急にしゃし
「それってもう、元サヤってことじゃないの?」綾香の家に遊びに来て、最近の出来事を話す。蒼也に食事に誘われたこと、ずっと想っていたと告げられたこと。ある程度の近況は、メッセージでも伝えていたけど、「最近は週末のたびに会ってる」と話すと、目を丸くして見つめられた。「菱本にも同じこと言われた」「まぁ、わからなくもないけど。どこからを“恋人”って言うか、って話よね?」綾香が子どもを授乳させながら聞く。抱かれている子どもは授乳用のケープの下で小さく手を動かしている。「そう、それ。『私の気持ちは返さなくていい』って言われたから、なんだか……」「でも、毎日メッセージして、週末は一緒にごはん食べて、昨日は部屋に呼んだんでしょ?」「うん」「健全に、食事だけ?」「……健全にね」綾香がニヤニヤしてくる。満足した子どもが、すぽんとケープの下から顔を出す。「朱莉はさ、それが健全だったのが気になってるんじゃない?」「そんなんじゃ……ないことも、ない、かも」そう。蒼也が『朱莉に今すぐ俺を好きになってほしいとは言わない』なんて言うから、自分も「ずっと忘れられなかった」と伝えるタイミングを逃してしまっている。昨夜も、食事をしに来ない?とかなりドキドキしながら部屋に誘った。スーパーに一緒に行って、昔みたいに並んで買い物して、自然と寄り添って歩いた。台所で料理していると、後ろから覗き込む彼の気配に、胸が高鳴る。食後は、近況を語り合って、いつも通りの雰囲気のまま、「帰り着いたら連絡するね」と言って、あっさり帰っていった。「弄ばれてるのかな」ぽつりと呟くと、ベビーベッドに子どもをそっと寝かせながら、綾香が考えながら返事をする。「蒼也さんって真面目な人でしょ? 人の気持ちを弄ぶようなことはしないんじゃない?」試されてる感じはしない。ただ、うまくかわされてる気がするのだ。「朱莉は先に進みたいのよね?」綾香が微笑みながらそう言う。たしかに、そう。でも、それだけじゃない。「そりゃ、まあ。健全な大人ですから」綾香が笑いながら温かい紅茶を入れてくれる。「私も蒼也さんに会ってみたいな。朱莉にそんな顔をさせる人なんて、めちゃくちゃ興味ある」そんな顔って、どんな顔なんだろう――自分では、わからない。「おかあさ〜ん、ただいまぁ〜!」玄関から元気な子どもの声
「で? 結局さ、これって“両想いだった自慢”の話なの?」PCの向こうで、菱本があきれたような表情で眉を上げる。「いや……蒼也には、私の気持ちは、まだ言ってないから」「は? なんで言わないの?」「なんか……これでいいのか、踏ん切りがつかないのよ」「結婚してるかもって、まだ疑ってるとか? そんなの調べればすぐ分かるでしょ」「それだけじゃなくて……。もしまた昔みたいに、何も言わずに突き放されたらどうしようって。だいたい、8年だよ? ずっと思い続けてるなんて、ありえる?」「いや、朱莉がそうでしょ。それ、自分のこと棚に上げて言う?」「それは......なんていうか。一度、手ひどく振られてる分、どうしても信じきれないの」菱本はため息をつき、画面に近づいた。「拗らせてるねぇ。もう赤い糸が絡まりすぎて、どこが端っこかわかんなくなってるじゃん」そのたとえに、思わず笑ってしまう。「確かに、絡まりまくってるわ。何を糸口にして解決したらいいかわかんなくなってる」「まぁ、あれだね。あんたたち姉弟が拗らせちゃうのは、親の呪いもあるでしょ。やっかいだよね」――否定できない。蒼也は、今も昔も誠実な人なのだろうと思う。 けれど、一度見てしまった“何も言わずに去った背中”が、記憶の底にこびりついて離れない。「ねぇ、朱莉。たぶんさ、蒼也さん、気づいてるんじゃない? 朱莉の気持ち。だから、自分の気持ちだけをまっすぐ伝えて、朱莉の気持ちはあとからでいいって思ったんじゃないかな」「……そうかな。そんなふうに都合よく考えていいのかな」「いいのいいの。自分に都合よく考えてるうちに、都合よくなってくるもんだよ」菱本は横目で笑いながら、娘のアナスタシアを膝に乗せてあやしている。「流されてみれば? どうせ、自分で動けやしないんでしょ? だったら流されてる方がどこかに辿り着くよ」「そんなのでいいの?」「むしろ考えすぎて損してるよ、朱莉は。人生、もっと肩の力抜いていいんだって」菱本の娘のアナスタシアが退屈して、画面に顔を近づけてきたので、つい笑って手を振る。 「バイバイ、アンちゃん」菱本はにやりと笑い、「とりあえず、流されておきなさい」と締めくくった。――そうだ、どうせ拗らせてる自分には、今すぐ答えなんて出せない。 だったら、もう少し流れに任せてみて
『もう一度……朱莉のことを好きだと言わせてほしい』 あの日、蒼也は熱を帯びた眼差しでそう言い、少しだけ笑みを浮かべた。それから、「だからと言って、朱莉に今すぐ俺を好きになってほしいとは言わない」そう静かに続けた。「俺が、朱莉を好きでいることは迷惑かな」――この感じ、どこかで似たような会話をした気がする。「迷惑……では、ないけど」「じゃあ、時々は連絡を取ってもいい?」「それは、別に……」その後、彼は「今は、自分の気持ちを知っておいてもらえたら十分だ」と言い、なぜか満足げな表情を見せて、食事を始め、なぜだか旧友とあった時のような最近のようすを聞いたりした。 「…つきさん、冬月さん。大丈夫ですか?」その声に、はっと我に返る。横から東畑さんが心配そうに覗き込んでいた。「さっきから何度も呼んでたんですよ? キーボードに手を置いたまま固まっていたから、具合が悪いのかと」「いえ、ちょっと……どう返事を書こうか悩んでいただけ」取り繕うように笑い、再び画面に視線を落とす。 画面には『エスモードデザイン 篠宮 行程変更に伴う懸念点について』というメールが開いていた。 定型文を貼り付け、社長の個人メールに転送する。昨夜は、あの後いろいろ混乱して言葉少なだった私を蒼也が送ってくれた。 家に着いて少し落ち着いた頃、スマホに「おやすみ。今日はありがとう」とメッセージが届いた。 短く「おやすみなさい」と返事を打ち、画面を見つめているうちに、時計の針は午前1時を回っていた。――いったい、何が起きているのか。 気持ちの整理が追いつかない。朝になって出社しても、心はまだ昨夜の余韻に引きずられていた。蒼也は言った。「朱莉のことをずっと好きだった」と。 ……本当に?8年という月日は、決して短くない。 そんなに長く思い続けるなんてあり得るのだろうか。 もし本当にそうなら、なぜ一度も連絡をくれなかったのだろうか?悶々とした思考が堂々巡りをする。ふと気づけば、また手が止まっていた。 少し離れたデスクから東畑さんが怪訝そうにこちらを見ている。 ――いかん、いかん。結局、一日中、自分を叱咤しながら仕事に向かうことになった。◇◇◇帰宅途中の電車で、窓に映る自分の顔を見て思わずため息がこぼれた。 仕事で疲れた三十路女の顔
電話を受けてバッグを手にエレベーターに乗り込む、 エントランスを抜けてビルの階段を下りた先に、蒼也が立っていた。「ごめん。急に誘って。でも、今日じゃないと誘う勇気が出なさそうだったから」昔のように口に手を当てて、少し耳を赤くしながらそう言う。「どこか店は決めてるの?」「そうだな……。誘っておいて、実はこの辺りの店を知らなくて」昔も同じような会話をしたことを思い出す。 思わず笑いが漏れる。「じゃぁ、私の知ってるお店で」駅の反対側にあるイタリアンへ向かった。 ビジネスマンが足早に通り過ぎて行く中を、二人で並んで静かに歩く。 不用意に言葉を発してしまうと、何か大事なことを伝え忘れてしまう気がして、ただ黙っていた。店に着き、席に案内されても互いに言葉は少ない。ワインを一口飲んで、ようやく蒼也が口を開いた。「朱莉と、もっとゆっくり話をしたいと思ってた」――私もよ。と心の中で答える。「その……話をしたいんだけど、どこから話せばいいか迷ってる」そのためらいに思わず言葉が出る。「蒼也は、私に申し訳ないと思ってるんでしょう? 違う?」その言葉に、彼がじっとこちらを見つめた。「そうだね。あんなふうに……何も理由を言わず、離れるべきじゃなかった」自分の両手で縋るようにグラスを持ち、そこに視線を落としつぶやく。「そうね、あの時は、すごく混乱したし、蒼也のことを怖いと思った」蒼也は、悲し気な苦し気な表情を浮かべる。「何も言わずに東京を去ったのは、父の工場が詐欺にあって、多額の借金を抱えたからだったんだ。なりふり構っていられない状態だった」そして、深く息を吐き、言葉を選ぶように口を開いた。「もし、事情を話せば......朱莉は俺から離れられなくなるだろう、と思って。だから……全部、黙って去ることにした」胸の奥がきゅっと締め付けられる。 ――私が知らなかったあの空白の理由が、今、彼の口から語られている。「君を傷つけた言い訳をしたい訳じゃない。許して欲しいわけでもない。ただ……何も知らないままお互いに……違うな、はぁ……」蒼也は、大きくため息をついた。 目の前に置かれたグラスに触れることもせず、言葉選びに集中している。「こんな風にもう一度出会えると思って無かったんだ。俺は、もう二度と会うことのない君を、心のどこかで思いながらずっと生き
仕事の打ち合わせを兼ねた会食を終え、ビルの谷間を抜けて駅に向かう途中、ガラス張りのレストランの前を通りかかった。――あれは、朱莉?ふと顔を上げて目を走らせた窓際のテーブルで、ワイングラスを手にした彼女の横顔が見えた。向かいに座る男――例の会話をしていた男、芹沢が、身振り手振りを交えながら何かを楽しげに話している。それに朱莉が笑みを浮かべてうなずくたび、胸の奥がざわついた。思わず足を止め、視線が釘付けになる。仕事終わりの疲れと酔いも相まって、彼女がまるで別世界の人間のように遠く感じた。視界の端に、自分の影が路上の並木の影に沈んでいるのを意識する。 まるで覗き見をしているみたいで、心臓が嫌な音を立てた。――もう、関係ないだろう?そう言い聞かせても、足は動かない。8年前、何も言えずに終わったあの日の記憶が、再び胸をかき乱す。テーブル越しに笑顔を交わす朱莉と芹沢の姿が、ひどく眩しく見えた。ワイングラスの縁をなぞる朱莉の指先。 その柔らかな仕草に、かつて触れた手の温もりがよみがえる。その瞬間、芹沢が身を乗り出し、朱莉に向かって何かを真剣に伝えている。 彼女がじっと彼を見つめた後、そっと目線を手元に落とした。その姿を見たとき、胸の奥で抑えていたものが軋んだ。視線を逸らし、踵を返す。夜風がやけに冷たく頬を撫でた。誰もいない暗い事務所に帰り着くと、ようやく、ふぅと息を吐いた。ビル街のネオンが、窓ガラスにぼんやりとにじんでいる。 足元に視線を落としたまま、さっきの光景が何度も脳裏に浮かんでは消える。――朱莉は、何を告げられていたのだろうどこかで数日前の会話が浮かぶ。『…年齢的にも結婚前提じゃねぇの? 』 『いいに決まってんだろ…』彼女はあの男と人生を歩むのだろうか。 そうして、自分の知らない時間を、誰かと肩を並べて生き